彼は世界の飢餓をなくすため南牧村で農家になった(文=高橋博之)

田中陽可さん(26)は、渋谷で生まれ育った。自宅は、渋谷駅から徒歩10分。高校3年のとき、社会の授業で国連難民高等弁務官として世界で活躍する緒方貞子さんの存在を知った。自分も世界平和に貢献する人間になりたいと憧れた。緒方さんの経歴を調べたら、アメリカの大学院を出ていたので、自分も行こうと決めた。高校卒業後、1年間英語の勉強をして、渡米した。

カリフォルニア州とメリーランド州の大学に合わせて3年半通った。渡米して間もなく、田中さんは腸捻転という病気になり、手術後10日間食事ができなかった。このとき、食べることができないつらさを知る。「とにかくお腹がすいてどうしようもなかった。この経験がなければ農家になろうと思わなかった」と、農家を志したきっかけを語る。この経験を契機に田中さんの関心は世界の飢餓問題へと向かった。


アメリカの大学で立ち上げたテーブル・フォー・ツーの学生団体の最初のメンバーたち。左から二人目が田中さん。


世界の約70億人のうち、約10億人が飢餓や栄養失調で苦しんでいる現実に向き合った。どうすれば飢餓問題を解決できるのだろう。いろいろ勉強していると、「土地収奪」という問題があることを知った。国や企業が外国の土地を買い、作物を育て、収穫物は自国や世界市場で売る*。例えば、日本のある企業はアフリカの土地を買い、そこで缶詰め用のトマトを栽培して販売する。その一方、アフリカの国には栄養失調が原因で亡くなっている人たちが大勢いる。

食べるものがなくて亡くなる人がいる国から食べものが出ていく。田中さんは、よく分からない現象だと思った。そして、その理不尽な現実を変えたいと思った。どうすればいいのか。アフリカの国で収穫したトマトは、アフリカで食べられればいい。今まで外国で生産していた分は、日本国内で生産すればいい。それが、田中さんが出した答えだった。そんなとき、たまたま動画サイトのユーチューブで、農薬も肥料も使わない自然農法を提唱する福岡正信さん**の言葉に触れ、これだと思った。


2013年、メリーランド大学ボルティモアカウンティー校(UMBC)卒業。卒論「孤独死と飢餓の関係:精神的な飢えと、肉体的な飢え」は最優秀に選ばれた。左の女性はUMBCの学長。


日本の農業は後継者不足で耕作放棄地が広がっていることが問題になっていた。しかし、耕作放棄地は過剰な肥料や農薬が抜け、生い茂る雑草に土が耕され、微生物が活発に生きる肥沃な土壌になるので、自然農法にはぴったりだと思った。耕作放棄地を問題ではなく、資源と捉え直す。そして、そこを舞台に自然農法が広がれば、国内の生産量が増え、アフリカの土地を買い漁らなくてもよくなる。そして、飢餓の問題も解決に向かうんじゃないだろうか。

自然農法を広めるためにはまず自分が実践しないと説得力がないと、農家になる決心をした田中さんは帰国後、耕作放棄地を探し回り、群馬県南牧村(なんもく村)に移住。独学で自然農法を学びながら、野菜づくりを始める。両親には「国連で働く夢はどこにいったのか」と驚かれたが、収穫した野菜を送り始めると、会社の人に野菜を紹介してくれるなど、応援してくれるようになった。

就農して1年経つが、毎日が楽しくて仕方がない。地下足袋で農作業している村の百姓の姿がかっこよくてたまらないという。農家の息子だったら、どれだけ知識や技術を覚えられたんだろうと思う。根っからの農家に憧れる田中さんだが、逆に村では東京への憧れがすごいことも知った。子どもや孫を東京に出したいとみんな口をそろえる。田中さんも「英語もできるのにもったいない。農業じゃ食っていけないんだから帰れ」と言われる。それでも、もはや村には若者がいないので、孫世代にあたる田中さんをみんながかわいがってくれ、あれこれ教えてくれる。


90歳の師匠。農や村のことについて教えてくれた。斜面の畑が南牧村の特徴で、水はけの良さはジャガイモの美味しさにつながる。

78歳の師匠。段々畑も南牧村の畑の特徴。やはり斜面である。

85歳の師匠。南牧村で「きりぼし」と呼ばれるサツマイモの干し芋の作り方を教えてくれた。村の皆が認めるきりぼしづくりの名人。


田中さんはポケットマルシェで野菜を販売した売り上げの一部(購入金額の内、100円〜200円)を、アフリカやアジアの学校の給食費として寄付している。100円で子どもたち5人分の食事がまかなわれる。こうした寄付ができるようになったのも、ポケットマルシェとの出会いが大きいという。「東京の八百屋さんにも野菜を卸していますが、寄付分だけ価格を少し上げたいっていう相談はしにくい。その点、ポケットマルシェであれば、自分で価格設定ができるので、他人を巻き込まずに自分の思いを押し通せる」。

消費者と直接つながりたいという思いも強い。例えばスーパーやレストランに野菜を卸すと、自分の野菜を食べてくれている人の顔も見えなければ、年齢も分からない。ポケットマルシェだと、買ってくれた人の名前がわかる。野菜を送ったお客さんから翌日食べた感想も聞けるので、やりがいを感じる。こういう顔の見えるお客さんに是非、畑に来てもらいたいと思う。そして、こういう環境で育ったんですよと言いたい。


村の人に面倒を見てもらい貸りることができたカヤの生える耕作放棄地。

上の写真の耕作放棄地を耕し畑に蘇えらせた。ここで栽培する作物は、「この環境が何を育てるのが上手か」を見極めて決めるという。


田中さんは農家になってみて、改めて農業という仕事の素晴らしさを知った。「農業はすごい。確かに自分の利益は最も少ない仕事かもしれない。体力的にもきつい。でも、環境保全とか飢餓解消とか、もっと大きなものの利益を守ることに根本的に関わることができる。人間が生きていく上で一番大事にしないといけないところで、その一員になれていることを誇りに思う。自分の姿を見て、次の若い世代につながっていけばいいなと思う」。


*参考文献:"The land grabbers of the Nacala Corridor"(UNAC GRAIN, 19 February 2015)※英語サイト

**福岡正信(1913-2008):愛媛県伊予市生まれ。岐阜高等農林学校(現在の岐阜大学農学部)卒業。25歳のときに急性肺炎を患い「人間の知恵と力は何の役にも立っていない」と考え、その後独自の自然農法を築き上げていく。1975年、その経験をまとめた著書「わら一本の革命」を出版。世界各国で翻訳版が出版されるロングセラーとなる。1979年以降は、自然農法による砂漠化防止の技術指導にも取り組んだ。1988年にはマグサイサイ賞、1997年にはアースカウンシル賞を受賞。


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書き手:高橋博之(㈱ポケットマルシェ代表)
団塊ジュニアの最後の年、1974年に岩手県花巻市に生まれる。前年、高度経済成長が終わる。その残像を引きずる団塊世代から、都会の会社でネクタイ締める人生がよいとの価値観を刷り込まれ、18歳で上京。見つかるわけもない自分探しに没頭(2年生を3回やりました)。大学出るときは超就職氷河期で、大きく価値観が揺さぶられる。新聞社の入社試験を100回以上受け、全滅。29歳、リアリティを求め、帰郷。社会づくりの矢面に立とうと、政治家を目指す。岩手で県議を2期やって、震災後の県知事選に挑戦し、被災地沿岸部270キロをぜんぶ歩いて遊説するという前代未聞の選挙戦を戦い、散る。口で言ってきたことを今度は手足を動かしてやってみようと、事業家に転身。生産者と消費者を「情報」と「コミュニケーション」でつなぐマイクロメディア、東北食べる通信を創刊。定員1500人の目標を達成する。その後、日本食べる通信リーグを創設し、現在、全国39地域にご当地食べる通信が誕生。「世なおしは、食なおし。」「都市と地方をかき混ぜる」の旗を掲げ、20キロのスーツケースをガラガラ引きずりながら、全国各地を行脚する寅さん暮らしを送る。昨年9月、食べる通信をビジネス化した新サービス、ポケットマルシェを始める。


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