【私はこうして農家になった】震災がきっかけで東京からUターンして半農半ITに|奈良県・大野収一郎さんの場合

【私はこうして農家(漁師)になった】シリーズでは、私たちの食生活を根底で支えつつも、産業全体としては衰退の一途をたどる一次産業の現場で奮闘する農家さん(漁師さん)に、その背景や想いを聞いていきます。


 シリーズについて:連載シリーズ【私はこうして農家・漁師になった】始まります


シリーズ第2回は、東日本大震災がきっかけで考えも人生も変わったという、奈良県奈良市の農家・大野収一郎さんにお話を伺いました。


300年の歴史あるお米農家に生まれて

1968年、大野さんは、奈良県奈良市で300年つづくお米農家の家系に生を受けました。しかし、農家を継ぐことには抵抗があったんだそうで・・・


大野さん

「 田んぼの手伝いなどもしていたのですが、学生のころお米の売上を親に聞いた時に、『農家だと絶対結婚できない!』って、思ったんですよね。

それで、大阪の大学に進学しました。大学卒業後は電話会社に就職し、28歳のとき、東京に転勤。

その後あるタイミングで『これからはインターネットだな』と思い31歳のときにITベンチャー企業に転職をしました。」


従業員わずか3人というベンチャー企業の中で、業務は「営業・商品開発・コールセンター・契約書・面接などなんでもやっていた」という大野さん。実家のことをほとんど考えたりする暇もなく、仕事に没頭していました。


ところが、その後転機が訪れます。


大野さん

「36歳で結婚したのですが、ほぼ同時期に父が他界しました。

もちろん奈良の実家のことを考えるわけですが、奈良に帰っても、ITの仕事は極端に少ないし、それでは家族は食えないと思っていました。


そうしたタイミングで、3.11が起きたのです。」


震災で食べものの大事さに気づいた

大野さん

「震災の当時、1歳の息子がいました。

東京では食べものが取り合いの状態になっていて、息子を抱えコンビニで水を買おうとしたときに、横におばあさんがいたのですが、譲ることができなかったんです。


そのときに、東京は陸の孤島なんだって、ハッとさせられました。


地方の農家さんが居なければ食べものがないし、あってもトラックが走らなくなれば、ものが届かなくなってしまう。どこかの農家さんがいるおかげで、息子のカラダも出来てるんだな。と。


大野家の田んぼ※オフシーズン


農家はお金にならないって思ってきたけど、お米しか作ってなかった。お米も野菜もぜんぶ、とても大事だなぁって気づいて。

それで、まずは原点の奈良にとりあえず帰ろう、と考えるようになりました。」


とはいえ、大野さんはベンチャー企業の大事な中心メンバー。さらには、結婚してお子さんもいる。大野さんのなかでは相当な葛藤があったようですが、その背中を押したのは奥様だったそうです。


大野さん

「会社は小さいときから自分たちで大きくしたようなところもあったので、もちろん後ろ髪を引かれるような気持ちもありましたし、自分が採用した後輩を置いていくことも抵抗がありました。


でもそのとき妻が『大丈夫、回るから』って。その言葉に、『そうだよな、特にIT業界はどんどん優秀な人も入ってくるけど、大野の実家は俺が居なくなったら無くなってしまうかも』と思い直しました。

その妻の言葉に背中を押されたところはありますね。」


誰がここを守るのか

大野家の畑を訪れると、周りは住宅やマンションが多く、すぐ近くに他の畑や田んぼは見当たりません。大阪などへのアクセスも良い場所で、いわゆる都市近郊の地域として発達をしてきたのでしょうか。


田んぼの周りには住宅が建ち並ぶ


大野さんの先代の方々も、周りが変わりゆく中できっといろいろな想いをしながら、300年、この土地をつないできたのではないかと思うのです。


大野さん

「ここの土地って、維持するだけで、毎年多額の税金がかかるんです。そのわりに農作物を生産し売ったとしても、決して儲かるものでもない。

それでも、東京で働き、見す見す私の代でこの場所が無くなると、きっと後悔すると思ったのです。」



きっと大野さんのような意志を持つ人がいなければ、この風景は簡単に消え去ってしまうものかもしれません。そう考えると、300年、ここにこの風景が残っていることは奇跡のようにも思えました。


43歳のUターン・転職への決意

震災以降、自分の気持ちや身の周りのことに整理をつけ、約1年後の2012年4月に、大野さん一家は奈良の実家に帰ることになります。



その当時の感情を、大野さんはこんな風に語っていました。


大野さん

43歳になってからのUターンだし、自分の職業観は21年間の都心での会社員経験が全てでしたし、正直不安ではありました。


でも、きっとこのままバリバリ働いて、IT企業の経営者にというのも何か違う気がしたし、65歳で定年してから第二の人生じゃ遅すぎると思ったんです。

逆に今から第二の人生を始めて、その先、第三・第四の人生を歩んでいった方がよっぽど面白いんじゃないかって。


そう思ったら、一度 全部捨てて早く帰ろう、そうしないと後悔する。そんな風に思うようになりました。」


半農半Xの生活

そうして、晴れて奈良に戻った大野さん。はじめのうちは、もともと取引先だった東京のゲーム会社の営業をしながら、お米作りをしていましたが、今は自宅から遠隔でゲーム会社の法務の仕事を行いつつ、お米も野菜も加工品も作る、いわゆる半農半Xの生活を送っています。



大野さん

「最初は、米のブランド化と販売から始めました。商品開発は何度も経験していたので売ることを始めたのです。そうしているうちに、もっと野菜を作りたい気持ちが湧いてきて、だんだんと農業をやっていくようになりました。」


キャリアを大幅に変更しての、全く新しい挑戦。これまでの経験を活かしやすい仕事もあれば、苦戦していることもあるようで・・・。



大野さん

「自分の土地だけでは少ないので、往復1時間半の耕作放棄地を借り、溝掘りから始め栽培しています。今年は去年の2倍になりますが 開墾は大変ですね(苦笑)。


それから自分にとっては、例えばクッキーを開発することは、これまでやってきた仕事との共通点が多いので、ある意味そんなに大変ではなかったのですが(※大野さんは現在いちごクッキーを販売中!)、農業の方がとても難しい。開墾・土作り・発芽から、白菜や人参を作ること。まだまだ腕を磨いていかなくてはいけないなと思いますね。」





「働き方」というテーマが、特に注目を集めている現在。農業をやりつつ、加工品も作り、自宅にいながらにして遠隔で東京の会議にも参加する、そんな大野さんのライフスタイルは、最先端とも言えるかもしれませんね。


二者択一ではなく、両方をやる。ビジネスでの知見を農業にも活かす。そんな形でも農業に携わる人が増えることは、担い手不足の産業全体にとっても良いことだと言えそうです。



「実家が農家だから農家になる」という図式はもはや当たり前ではなくなっている今。ポケットマルシェは、いろんな想いや葛藤を経て一次産業の担い手となった人たちに引き続き注目し、応援していきたいと思います!



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