土砂災害で孤立した柿を守る299歩分の復興(文=高橋博之)

ポケットマルシェでは2017年7月の九州北部豪雨に関連して、同月下旬にチャリティ販売を実施しました。チャリティ出品の生産者売上とポケマル手数料の合計233,280円は、9月29日、無事に福岡県朝倉市の志波地区社会福祉協議会へ寄付いたしました。皆さまの温かいご支援に心から感謝申し上げます。

今回は、行政による復興の手が及ばない中、自身の手で道を切り開いてきた秋吉智博さん(福岡県朝倉市)の3ヶ月を、ポケマル代表の高橋博之によるレポートでお届けします。

2017.11.14追記:秋吉さんから柿の出品が始まりました。記事の最後に出品のリンクを追加しました。


2017年10月10日、およそ3ヶ月ぶりに秋吉智博さんのご自宅を訪問した。敷地内にある作業小屋では、秋吉さんの妻と母が収穫したブドウの出荷作業に追われていた。そこで、秋吉さんと、朝倉市杷木志波地域コミュニティ協議会会長の小江高秋さんから話を伺った。

災害の影響でブドウ出荷は例年より遅れ10月半ばまで。その後に柿の出荷がはじまる。

冒頭、今回の寄付への謝辞をいただき、被災した農家の生活支援に使わせていただくと使途について報告を受けた。

朝倉市は5年前の2012年にも大きな水害にあい、政府の激甚災害指定を受けているが、その手当てが終わった今年、さらに深刻な水害が発生したことになる。小江会長は「復興には100〜150億円かかると言われている。朝倉市の予算は年間300億円だから大変な金額だ。復興には10年かかるだろう。しかし、早く河川の流れを変えていかないとまた同じ水害が起こりかねない」と、厳しい表情だった。

杷木地区への熱い思いを語る小江高秋会長(左)と高橋(右)


志波地区に暮らす200軒近い農家は、ほぼ被災している。そのうちの20軒ほどは自宅が流され、収入がゼロになった。「後継者がいないところはこれを機にやめることになるから、離農は増えるだろう」と、小江会長は予測している。

比較的被害の小さかった中心市街では、心理的にはもう終わったことになっている住民もいるらしく、被害の大きかった山間部の集落が取り残されるのではないかという不安を抱えているようだった。

写真右上から左上にかけては、かつては車が入れる幅の道があったが、土石流で破壊された


事実、人口の少ない地域は市街地よりも行政による支援が遅れがちである。しかし、農作物はそんなことはお構いなしに、日々成長していく。行政の手を待っている猶予はないと、秋吉さんはこの3ヶ月間、地域住民と共に集落のメインとなる道路を自分たちの手で整備してきた。

寸断された柿畑への道。損傷が激しいこの道の復旧は諦め、別の道を作った


そこから各農家の柿畑に向かう道は基本的に使う人間の力でつくることになる。上流部にある秋吉さんの柿畑も、そこに至る道路が寸断されたため、孤立していた。しかし、「下から見ていても柿の実がどんどん育っているのがわかった。ほっとくわけにいかなかったと、自ら一週間かけて整備した。

柿畑への道すがら、笑顔を絶やさない秋吉さん。明るい人柄は地域の人からも慕われている


整備した道を秋吉さんと歩きながら登っていった。歩数を数えると、299歩だった。傾斜が厳しいので歩幅は小さいが、それなりの長さである。柿畑に堆積した30㎝あまりの土砂を運んで道路をつくったという。大変な作業だったことが伺えた。

柿畑への新たな道。近所の人にも協力してもらい数人で整備した


上の柿畑に着くと、大量の土砂がかぶっていたが、柿の木には実がたわわに実っていた。「流木まで入ったところは管理できずにダメだった。ここらへんのは収穫するが、来年からは駄目になる可能性もある。おそらく土壌が変わるだろうから。同じように土砂をかぶった竹林の竹が枯れるくらいだから」と、秋吉さんはいう。

堆積した土砂は白く、土というより石に近い


2016年12月の柿畑。秋吉さんの足元の土は茶色くふかふかだ


周辺の柿畑にまで押し寄せた流木の杉に近づいてみると、根っこが短かった。「このあたりの山はまったく手入れされていなかった」と秋吉さんが言う通り、山は杉が鬱蒼と生い茂っていて、間伐などされていないようだった。

柿の木の根元に残る流木の杉は、林業の衰退の現れともいえる


適切な密度に間伐しなければ、太陽の光が十分に届かず地面に根を深くおろすことができないため、地盤が脆弱になる。今回の水害は大量の流木が被害を拡大させたとの指摘も一部専門家から聞かれるが、まさにその指摘通りの山の状況であった。

この柿が来年も実をつけるために。秋吉さんの闘いはこれからだ


秋吉家のブドウの出荷は例年だと9月末に終わるが、今年は押し気味のスケジュールで進んでいる。ブドウの出荷は10月半ばに終わり、その後は柿の出荷が10月末から12月上旬まで続くという。

被災して以降、復旧作業と並行して果樹の管理・収穫・出荷作業を家族総出でこなしてきた秋吉さんはいう。

「昨年の熊本の震災のときは柿や米を送って支援した。近いしね。でも今回は、遠くのひとが応援してくれた。考えられない。感謝しかない。もうどうにかしてやるしかない。再生することしかない」


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書き手:高橋博之(㈱ポケットマルシェ代表)
団塊ジュニアの最後の年、1974年に岩手県花巻市に生まれる。前年、高度経済成長が終わる。その残像を引きずる団塊世代から、都会の会社でネクタイ締める人生がよいとの価値観を刷り込まれ、18歳で上京。見つかるわけもない自分探しに没頭(2年生を3回やりました)。大学出るときは超就職氷河期で、大きく価値観が揺さぶられる。新聞社の入社試験を100回以上受け、全滅。29歳、リアリティを求め、帰郷。社会づくりの矢面に立とうと、政治家を目指す。岩手で県議を2期やって、震災後の県知事選に挑戦し、被災地沿岸部270キロをぜんぶ歩いて遊説するという前代未聞の選挙戦を戦い、散る。口で言ってきたことを今度は手足を動かしてやってみようと、事業家に転身。生産者と消費者を「情報」と「コミュニケーション」でつなぐマイクロメディア、東北食べる通信を創刊。定員1500人の目標を達成する。その後、日本食べる通信リーグを創設し、現在、全国39地域にご当地食べる通信が誕生。「世なおしは、食なおし。」「都市と地方をかき混ぜる」の旗を掲げ、20キロのスーツケースをガラガラ引きずりながら、全国各地を行脚する寅さん暮らしを送る。昨年9月、食べる通信をビジネス化した新サービス、ポケットマルシェを始める。

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