「絶対にあきらめない」九州北部豪雨被災地の農家は今(文=高橋博之)

九州北部豪雨災害で大きな被害が出ている福岡県朝倉市。ここに住むひとりの果樹農家を訪ねて、発災4日目に現地入りした。


山の斜面が崩落し、大量の杉を巻き込みながら土石流は市街地まで押し寄せていた。

 大量の流木に塞がれた町中の交差点


山あいのどん詰まりにある政所(まんどころ)集落は、土石流が最初に襲った地域のひとつである。傾斜地に民家と果樹園が点在する集落には、民家の浸水や倒壊、果樹園の水没、道路の陥没など、至るところで土石流が襲った生々しい爪痕が残っていた。


大量の流木が堆積した川と土石流に埋もれた民家


市街地には自衛隊、国・県・市の関係者、メディアの姿がたくさんあったが、政所集落ではまったく見かけなかった。20戸ばかりの小さな集落で、住民のほとんどが高齢世帯の果樹農家だ。


秋吉智博さん(37)は、その中でただひとりの若い果樹農家である。


「市街地の方は人口が多いから、まずあっちから復旧が始まるのは仕方がない。こっちは後回しになるだろうけど、この通りの状況で人力では限界があるから、こっちの窮状も知ってほしい」

秋吉さんは自分の柿と葡萄の果樹園の復旧作業に奔走しながら、集落全体の被害状況を確認し、行く先々で住民に声をかけていた。日頃から、若い秋吉さんは住民たちから頼りにされ、御用聞きのような役割を果たしてきた。今回の災害でも、行政と住民の間に入って、調整役を自ら担っている。


柿の果樹園に向かう道路は流れてきた土砂や杉の木で寸断されている


土石流が通過し一部が消失した果樹園に佇む


今から17年前、父が他界したのをきっかけに家業の果樹園を継いだ。柿や葡萄の本は片っ端から読み、集落の先輩たちに聞きながら、果樹栽培を覚えた。

元々は農協に出荷していたが、価格が安いことに行き詰まりを感じていた。集落で離農した農家の果樹園を引き継ぎ面積も増えたが、母と妻と3人で回すには今が限界で、これ以上面積は増やせない。量産できないとなると、質のいいものを少量生産し、価値を認めてくれた相手に直接販売するしかないと、路線を転換した。



元々、柿の品質には自信があった。

全国有数の柿の生産量を誇る福岡県では減農薬栽培に取り組む柿農家は極めて珍しかったが、秋吉さんは、安心できるおいしい柿を消費者に食べてもらいたいと、農薬や化学肥料を可能な限り使わずに育て、福岡県減農薬減化学肥料栽培認証を取得した。


大量生産できないため、毎年わずかな量しか収穫できない「まぼろしの柿」。

しかし、今回の集中豪雨で果樹園の一部が土石流に押し流されてしまった。道路は寸断され、柿の果樹園全体のおよそ3分の1にあたる約1000本の木が孤立している。


難を逃れた高台の柿園へは、道路が消え行くことができなくなった

 

高台にある孤立した柿の木たちを見上げながら、秋吉さんは子どもたちを案じる親のように話した。

「こんなん(自然災害)気にせず、こいつらどんどん太ってきますからね。結局、こいつら捨てるか、生かすか。捨てたら二度と穫れないですからね」

行政の対応を待っていても、柿は待ってくれない。なんとか孤立した果樹園まで軽トラックでたどり着けるルートを確保しないと栽培を続けられないと、その方法を頭の中であれこれ考えていた。


自然災害は避けることができないとはいえ、丹精込めて育ててきた生産物が一瞬でダメになってしまう。あきらめてしまいたくならないのか、率直に聞いてみた。

「どうしょうもないけん。しゃーない。嫌ならやめればいい。そして、サラリーマンになるか。俺は嫌だ。20歳のときに決めた。死ぬまでやると決めて始めたから絶対にあきらめない」

タオルで額の汗をぬぐいながら、淡々と答えた。

 

「うなだれている暇もない」と、時折笑顔さえ見せる。日頃から自然の変化を相手にしている農家の強さを感じる。


とはいえ、ここ数年、気象変動の激しさに薄気味悪さも感じている。台風の3日後にまた次の台風がやってきたりする。これでは対策のやりようがないと、秋吉さんは嘆く。

確かにここ数年、ニュースなどで「これまでの想定を超えるような雨の降りかた」といったような表現を私たちもよく耳にするようになった。今後、温暖化の影響で台風は大型化し、頻度も増えると専門家は指摘している。となれば、海や山など自然の近くで暮らす人々はその分自然災害にさらされるリスクも高くなる。

 

そして、その自然災害リスクが高まる場は、過疎化・高齢化の最前線でもある地方だ。


そんなリスクにさらされるのはまっぴらごめんとばかりに大半の人間が都市に出てきたのが今の日本なのだが、決して他人事としてはならないと思った。その場は私たち都市住民の命を支える食糧を供給する場でもあるわけだし、何より、気象変動の要因として指摘されている温暖化に、より大きく加担してきたのもまた、私たち都市住民なのだから。

大切なのは、こうした自然災害が起こったときに、私たち都市住民(消費者)も自分ごととして、被災した生産者たちと連帯することではないだろうか。


被災した秋吉家は、今年4月から葡萄栽培の管理でまったく休みがない。例年であれば7月前半に管理を終え、下旬からの本格的出荷に備えて家族でつかの間の骨休みにでかける予定だった。

しかし、集中豪雨に見舞われ、それどころではなくなった。


7月末頃から出荷開始予定の秋吉さんのブドウ


秋吉さんは復旧作業、そして母と妻は幸運にも難を逃れた葡萄の手入れに追われていた。まずはこの生き残った葡萄を私たち都市住民が購入することで、復活の一歩を後押ししたい。それが最もわかりやすい連帯の形ではないだろうか。



書き手:高橋博之(㈱ポケットマルシェ代表)
団塊ジュニアの最後の年、1974年に岩手県花巻市に生まれる。前年、高度経済成長が終わる。その残像を引きずる団塊世代から、都会の会社でネクタイ締める人生がよいとの価値観を刷り込まれ、18歳で上京。見つかるわけもない自分探しに没頭(2年生を3回やりました)。大学出るときは超就職氷河期で、大きく価値観が揺さぶられる。新聞社の入社試験を100回以上受け、全滅。29歳、リアリティを求め、帰郷。社会づくりの矢面に立とうと、政治家を目指す。岩手で県議を2期やって、震災後の県知事選に挑戦し、被災地沿岸部270キロをぜんぶ歩いて遊説するという前代未聞の選挙戦を戦い、散る。口で言ってきたことを今度は手足を動かしてやってみようと、事業家に転身。生産者と消費者を「情報」と「コミュニケーション」でつなぐマイクロメディア、東北食べる通信を創刊。定員1500人の目標を達成する。その後、日本食べる通信リーグを創設し、現在、全国39地域にご当地食べる通信が誕生。「世なおしは、食なおし。」「都市と地方をかき混ぜる」の旗を掲げ、20キロのスーツケースをガラガラ引きずりながら、全国各地を行脚する寅さん暮らしを送る。昨年9月、食べる通信をビジネス化した新サービス、ポケットマルシェを始める。



2017年1月にポケマルスタッフが秋吉さんの柿園を訪問したときのレポートはこちら

2017年7月31日までポケマル上でチャリティ販売を実施中。全国の農家漁師が被災地朝倉の農家を支援します。詳しくはこちら

(7月31日追記:チャリティ販売は7月31日 21:00をもって終了いたしました。たくさんの購入、誠にありがとうございました。)

Magazine

あわせて読みたい