北海道胆振東部地震から、今日で2か月がたちました。この地震で亡くなられた方々に心から哀悼の意を表しますとともに、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
ポケマルマガジンで記事を書いてくださっている札幌市在住ライターのわたなべひろみさんは、地震当日も札幌市のご自宅にいらっしゃいました。幸いにしてご自身や身の回りに大きな被害はなかったそうですが、愛する北海道全土に影響を及ぼした大災害で、被災者のひとりとなりました。
地震発生から2か月。北海道を離れた地域ではすっかり通常の毎日に戻っていますが、災害の多い日本では、いつどこで次の災害が起きても不思議ではありません。
わたなべさんの経験が、いつか誰かのためになりますように。そんな思いを込めて、わたなべさんに地震発生から7日間の記録を書いていただきました。
* * *
ライターのわたなべひろみです。
北海道胆振東部地震の発生から2ヶ月が経ちました。札幌で生活するわたしにとって、長くもあり、あっという間でもあった2ヶ月でした。
これまでも、東日本大震災、熊本地震、大阪北部地震、そして、繰り返しやってくる大型台風……と日本全国で想像を絶する自然災害が相次いできました。
それぞれの被害の様子を見聞きし、被災した友人の話を聞き、どんなにつらいことだろうとわたしも、気持ちを寄せているつもりでいました。
しかし、今回、実際に大きな地震からの大規模停電を経験して感じたのは
「自分だって心の奥底では他人事だったんだ」
と、いうことでした。とてもショックでした。揺れがもっと大きくなるのではないかという不安、闇の恐ろしさ、いつ解放されるかわからない心細さを味わって、ようやく自分事として、災害に遭うということがほんの少しわかったように思います。
それと同時に、災害によって起こる生活の不便を経験して、水や食べもの、電気が手に入るのは当たり前のことではないのだと、改めて気づきました。
今回は、わたなべが今回の地震で経験したこと、感じたことを記したいと思います。
9月6日
午前3:00
真夜中に何故か目が覚めた。スマホの時計を見ると午前3時すぎ。まだ寝られるなぁと、ポーッとしていたら、
「ガツン!」と音が響いた。
部屋がガッチガッチと今まで聞いたことのない音をたてて、揺れる。
──地震が発生しました! 地震が発生しました!
けたたましい警報音とともに騒ぎ立てるスマホに向かって、「わかってるわっ!」とツッコミながら、電気をつけ、別室で寝ていた母に声をかけながら、揺れが収まるのをひたすら待った。
9月6日3:07:59 北海道胆振東部地震 発生。
揺れが落ち着いたところですぐにラジオをつけ、胆振地方が震源と知る。すぐさま震源に近い日高町に住む長女に連絡を入れる。無事を確認してひと安心。
我が家は玄関に飾ってあった額縁がひとつ転がり、本棚に積んであった軽い箱が崩れた程度。大したことはない。他の地域は大丈夫なのだろうか……と話していたその瞬間。
──ブツン
電気が途絶えた。
灯りがないというだけで、部屋の中にいるのに、壁も何もない闇の中に丸裸で投げ出されたよう。理由も何もなく、ただただ怖い。
しかし、そうも言っていられないので、意識して冷静になるよう努める。
まずは、スマホのラジオをつけてみる。今のところ電波は通じているようだ。
普段から枕元でスタンド替わりに使っていた懐中電灯をつける。キャンプ用にと買ってあったネックライトを取り出す。浴槽に水を貯める。ブレーカーを落とす。犬に反射材付きの首輪をさせる。
黒犬は暗闇でうろうろされると踏みそうになるので
少し考えて、冷凍庫から、いっぱいになっていた氷をケースごと外に出す。このまま停電が長引いたときに冷凍庫の中で溶けて、水になってこぼれてしまわないように。
なかなか明るくはならない。
母と犬、2人と1匹で同じ部屋にいることにして、少し眠ろうと横になるが、下から微かな地鳴りのような音がして、また揺れる。
結局、眠れぬまま朝を迎えた。
6:00
この時点でわかっていたのは、
- 全道全地域が停電で復旧する見込みがない
- 断水になっている地域もかなりある
- 地域で断水になっていなくても水を電動のポンプで汲み上げているマンションでは戸別に断水になっている
他の被害の状況はまだわからない。
手回し充電式のラジオが見当たらず、ラジオの電池もない。そこで、コンビニに行ってみることにする。ところが、その時点でわたしはまだ、甘かったのである。
外に出ると、もちろん信号はついていない。クルマの数は少なく、辺りを伺うようにゆるやかなスピードで走っていた。路面電車も走っていない。そして、いつもより歩いている人の数が多い。
地震発生からずっと何故か空がきれいだった
最寄りのコンビニは3軒。そのうち1軒だけが営業していた。周囲の道路は駐車場に停めきれないクルマだらけ。
店内をのぞくと、既に電池、惣菜・弁当類、パン、カップ麺の棚は空っぽ。飲み物もアルコールの棚以外はスカスカの状態である。
レジに並ぶ列は、店内を1周するように、入り口側にまでぐるりと回ってきている。漂ってくるただならぬ気配に気圧されて、一旦家に戻った。
食料品に関しては、我が家は前々日に1週間分の生鮮品、ペットボトル入りの水、米5㎏を買ったばかりだった。乾麺や缶詰もそこそこはある。
幸い、断水することもなく、ガスも通っていたので、食べることについての心配はなかった。おそらくこれだけの食料があれば、大人3人で1週間以上は何とかなるだろうと思った。
ただ、電気が復旧しないことには冷蔵庫が役に立たない。また、水やガスもいつダメになるかわからない。そこで、生ものだけは火を通しておくことにした。
干物の魚は、そのままで大丈夫と判断。醤油づけにしてあったマグロを焼く。塩で揉んでキッチンペーパーに包んでおいた塩鶏はゆでる。
今朝炊くよう準備してあった米3合を炊き、梅干し入りのおにぎりに。普段は素手でにぎるのだが、万が一、菌が繁殖してはいけないと思い、ラップを使う。用心のため、さらに5合炊いておにぎりを作り、冷凍庫スペースに入れておいた。
8:00
夜勤明けの夫がいつもより早く、無事に帰ってきた。
夫の職場は、高齢者向けの8階建ての食事つきマンション。もちろんエレベーターは使えず、階段を往復して各部屋に朝食を届けてきたそう。
「帰り道にあるスーパーでは、外にものすごい人が並んでいたよ」とのこと。
手回し充電式のラジオを出してもらう。この時点でスマホの電池の残りは50%。携帯充電器はあるが、温存したいので、知人の安否確認など最低限の情報収集のみに使うことにする。
11:00
ラジオで市内、道内の様子がだんだんとわかってきた。震源近くの状況に胸が痛む。
札幌市内でも、我が家のように無事なところもあれば、液状化で道路や家が危機的状況になっているところ、家の中に食器や本が散乱してしまったところもあるとのこと。
ひとくくりで大丈夫、大丈夫じゃないとは言えない。
16:00
仕事が休みの夫と外を歩いてみた。
一番近いスーパーは入口の風除室にレジを出して販売をしていた。入口には「現金のみ」「要冷蔵品は販売しません」との貼り紙。外にずらりと30人くらいの人が並んでいた。
路面電車でひと駅隣の中規模スーパーは閉店中。
メインの通りでなく住宅地側の道路に、いつもよりクルマの通りが多い。水が出る公園などを探しているのだろうか。
自転車のハンドルに水道局で配っている給水袋を下げて走る人とすれ違う。大きなキャリーバッグを引きながら、避難所となった小学校の方へと1人歩く年配の方。
家の近くへ戻ったら、小さなレストランのご主人が店先で炭を熾していた。
17:00
夕暮れが近づく頃から、ぽつりぽつりと電気が復旧してきているとの情報が。我が家にはまだ。
今夜は電気がこないことを覚悟し、手元が見えるうちに夕食の支度をした。
前日、誕生日を迎えたわたしのために夫がワインを用意してくれた。懐中電灯と何個かのキャンドルの灯りで乾杯した。
外は墨を塗りこめたような闇に、航空障害灯の赤い光だけが3個ほど遠くに見えるだけ。
バリバリと騒々しくヘリコプターが3基飛んでいる。きっと、ブラックアウトした街を空中から撮影して、テレビで悲壮な調子で報告をしているのだろうなと意地悪く思う。
忘れられない誕生日になった。
コラム① 避難所あれこれ
今回の地震で、初めて知ったことがありました。
それは、防災マップ上で「ここは避難所です」とされているところが、すべて避難所となるわけではないということ。あくまでも自治体が受け入れ体制を整え「ここを避難所とする」と宣言したところが避難所となるのです。
我が家の場合は、マップ上では家からすぐの高校がいちばん近い避難所となっていました。しかし、実際に開設されていた避難所は540m(路面電車で1駅分)離れた小学校でした。
ラジオでは避難所の情報も逐一流していましたが、なにせ膨大な量の情報なので、ちょっと聞き逃すとわからずじまいです。わたしの場合は、ネットの環境が整った段階で「念のために」と検索して情報を得ることができました。情報を得る術を持たない人は、一体どうすることでしょう。
札幌市内では観光客向けの避難所も開設されていましたが、一部では情報がいきわたらず、不快・不便な思いをされた方もいらしたとも聞きました。
誰にでもわかる情報の伝達の方法を考えていくこと、また、普段から住んでいる地域のことをよく知っておくことは、災害時にばかりでなく大事なことなのだと実感しました。
9月7日
午前5:00
電気が通った。窓のないトイレにライトなしで行けるだけでも、ほっとする。
スマホ、充電器、ノートパソコンを充電。まだ、札幌市内でも通電していないところもある。電力供給もまだ不安定だとのことなので、できるだけ電気を使わないようにする。
朝ごはんは、昨日のおにぎりとスープで。冷凍庫スペースに入れておいたおにぎりは半分凍った状態になっていた。電子レンジを使わず、皿に並べて鍋で蒸かす。
ネットに各地の被害の様子が画像付きで流れ込んでくる。辛い。
15:00
昨日、外に列ができていたスーパーをのぞいてみた。野菜はそこそこ、魚介類、肉は棚の半分くらいはある。
店先や店内には数量限定での買い物のお願いの貼り紙が。
店内で買い物する人のほとんどは慌てる様子なく、淡々としている。1人だけ甲高い声で家族に指示を出しながら買い物する女性が。必要以上の緊張感に気が滅入る。
16:00
暗くならないうちに夕食の支度をして、キャンドルの灯りで食事をする。早めに布団に入って、手回しライトで本を読んだ。
コラム② あって良かったもの・用意しておきたいもの
・ネックライト
キャンプ用に用意してあったものが役に立ちました。両手を使えるのが便利です。
頭に巻きつけるヘッドライトも手元の作業をするにはよいと思います。ただ、その形だと対面に人がいる場合、相手にはとても眩しいので使い分けをするとよいかもしれません。
ちなみに、コンサートで使うペンライトなども役に立ったそうです。
・手回し充電式ラジオ・電池式ラジオ
ラジオの情報がとても役に立ちました。
特にAMの地元放送局の情報は地域密着で、給水、避難所、スマホの充電をしてくれるところ、スーパーの営業時間などをきめ細かく伝えてくれていました。
友人からは、「通電したのでテレビをつけたら被害の状況を延々と流すだけで、情報源としては意味がなかったのでラジオに切り替えた」という話も聞きました。
・スマホ用大容量充電器
ひとり暮らしの友人が口々に言っていたのが、「スマホの充電が減っていくたびに不安で不安で仕方なかった」ということ。
スマホ用充電器を用意するならできるだけ容量の大きなものがいいと思います! 近所を歩いていると、クルマの中でスマホを充電している人も多かったです。
意外に充電器替わりとして役立ったのはノートパソコンだったという話もありました。
・海苔・乾物
海苔は万能でした。
おにぎりやごはんに添えるのはもちろんですが、ちぎって醤油をたらし、お湯を注ぐだけで、簡単なお吸い物にもなります。サラダに混ぜても風味が変わるのでドレッシングが手に入らなくても、飽きずに食べられます。
また、乾燥わかめや切り干し大根もあるといいと思います。
わかめはスープやカップ麺に入れれば目先が変わり、ボリュームアップします。切り干し大根は水でもどして、生野菜が手に入りにくい時のサラダにも。何より海苔も乾物も軽い! 非常用持ちだしの荷物に入れておくとよいと思います。
・保冷材
停電時、保冷材が冷凍庫にたくさんあったら冷蔵庫側にも移動して、ドアの開閉を極力少なくするだけでも保冷状態を長めに保つことができるそうです。
今回、わたしは冷凍庫内で水になってこぼれてしまうかもと、氷をケースごと外に出してしまいました。しかし、「氷は、融けてもこぼれないようにジッパー式のビニール袋に入れてから冷蔵庫に入れておいたらよかったんじゃない」と、後日、長女に言われました。うーん、確かに。
・甘いもの
普段、わたしは甘いものをほとんど食べません。でも、地震から3日目にコンビニで最後の1つになっていたミニあんパンを買って食べてみたら、何とも言えず「ほっ」としました。
災害時に食べものの選り好みはできないとは思いますが、ちょっとした甘いものが気持ちをほぐしてくれることもあります。
常備しておくなら、ホットケーキミックスがあるといいかもしれません。卵や牛乳がなくても水で溶いて焼くだけで、ちょっとした甘いものになります。好みにもよりますが、ドライフルーツも日持ちがしていいでしょう。
9月8日
早くに布団に入ったのに、都合3時間くらいしか眠れず。ちょっとした音にも敏感になっている。
12:30
豊平川の対岸に行ってみた。川沿いの道路を「第11師団災害派遣車」の断幕を幌に張った自衛隊のトラックが北に向けて走るのを見かけた。
4日の台風の影響でまだ増水中だった豊平川。根元から倒れている樹も。
川の向こうのスーパーは野菜も肉も魚もなし。パン、カップ麺、お菓子類の棚も空っぽ。唯一充実していたのは酒類の棚だった。
歩いた道々の飲食店の半分くらいが開店している。近くのコンビニに寄ると、いつも弁当が陳列してある棚いっぱいに納豆のみが並んでいる。
あとで聞いたところによると、そのコンビニチェーンでは、他にバナナのみをズラリと並べているところなどもあったそう。店内がバナナが熟す匂いでいっぱいだったとか。
そして、いつもアイスクリームが並べられているオープンの冷凍庫の上に大量のゴミ袋が積み上げられている。
「販売中止」の貼り紙がされたその中身は、冷凍食品やアイス。その向こうの一番奥の通路はふさがれ、そこもゴミ袋の山。弁当、総菜類がびっしりと入っていた。
17:00
友人から「震源地近くで地鳴りが続いている。大きな余震がきそうだから気をつけて。でも、デマだったらごめんね」と連絡あり。
今回、このようにSNS上ではなく、親せきや友人から、直接様々な情報が集まってきていた。でも、実はほとんどがデマだった。
せっかくの思いを無碍にはできないけれど、自分から情報発信するということを考えさせられた。
タイムラインは時系列で出現するわけではないので、自分の目で見た情報(○○スーパーに牛乳があった! など)も、日にち・時間を入れると親切なのだなぁとも感じた。
9月9日
12:00
地震後、初めて札幌市内中心部へ行く。
友人に炊き込みごはんとちょっとしたおかずを差し入れ。SNSで無事は確認していたが、顔を見て話すと安心する。
節電が呼びかけられているため、街中はどこも、ぐんと照明の照度が落とされている。
札幌市地下歩行空間。日中だが、この人の少なさ。全体の照明を落としているので天窓からの光が明るい。
思ったより人出はある。でも、音が少ない気がする。何かに吸い取られているような静けさ。街はいつもと変わらないように見えるけれど、いつもと変わらない風に、皆が装っているようにも見える。
思いがけず何人かの友人とも会えた。やはり顔を見ると安心。
15:00
デパートの食料品売り場はほぼいつもと同じ様子。一部の惣菜屋で「本日の販売分は終了しました」の貼り紙。何を売っていたのだろうか。
狸小路にある道産野菜・食材を売る店にも立ち寄ってみた。ここも野菜は若干品薄程度。品切れ続出の郊外のスーパーと全く違う。これらのスーパーでは牛乳や納豆、豆腐などが特にないとのこと。
帰宅すると、母の友人が畑で採れた野菜を届けてくれていた。こんな時期に本当にありがたい。なす、トマト、ピーマンをたっぷり使ってカレーを作った。
コラム③ 東京出張中のお父さんたちは
この日のミーティングの際に、地震当日の6日に出張で東京に行っていた人の話を聞きました。
その日はもちろん新千歳空港行きの便は全便欠航で東京に足止め。
翌7日、新千歳空港の国内線の発着は復旧しましたが、朝の時点では千歳から札幌市内へ向かうJRやバスはまだ止まったまま。それでは札幌へ帰りつくことができないため、様子をみることに。午後からJRが運転再開することとなってから帰札を決めたということでした。
東京に足止めされているうちに、手回し充電式のラジオを買おうと家電量販店に行くと、まさかの品切れ。在庫を調べても、東京都内には全くなく、範囲を拡げて探してもらったところ、名古屋の店舗にようやくあったとか。「首都圏でも今回のブラックアウトに慌てて、備えておこうと思ったのでしょうね」とのことでした。
そして、羽田空港に着き、家族のために少しでも食料品を調達していこうとするも、空港のコンビニも棚が空っぽになっていたそうです。弁当もカップ麺もほぼ売り切れ。かろうじて辛口のカップ麺があるのみ。
周囲には膨らんだコンビニの袋を持つ人々が。その人たちは皆、新千歳空港行きの飛行機に乗っていったそうです。家族と離ればなれで過ごしたお父さんたちは、皆、同じことを考えていたのでしょうね。
9月11日
午前3:00
目が覚める。コンと変な音がした気がして、「余震か?!」と思い、ラジオをつけたが違った……と思ったら、福島で地震あり。それからほどなくして、ゴツンとこちらでも余震。
音や建物の響く感触に敏感になってる。身体も、ガチガチだ。
16:00
恒例になってしまったスーパー巡り。
棚が空いているのを当たり前に感じるようになっている自分がこわい。ただ、ジワジワと少しずつ空いているスペースが少なくなってはきている。
中型スーパーでは、生鮮品が入荷しはじめた。地域にもよるとは思うが、牛乳もある。照明を間引いてあるから、店内が暗いのが寂しく感じるが、それも仕方ない。
20%と設定された節電目標に限りなく近くまで迫り、計画停電なしにできたのは道産子の心意気だと思う。ただ、家庭では何とかなっても、工場などでは作業に支障が出ているのではないだろうか。
9月12日
地震発生から、1週間。
打ち合わせのためのミーティングに出かける。札幌市内中心部は、ほぼいつも通り。少し照明が暗めなだけ。
大きい余震が起きると地下鉄は点検のため運転見合わせとなる。
21:00
帰り道に近所のコンビニに寄る。
パンも牛乳も入荷したばかりだった。カップ麺も並び始めた。空っぽだった棚にパズルのピースをはめるように店員さんが品出ししている。
これまでびっしりだったビールやチューハイの棚に隙間ができはじめていた。皆、お酒を飲む余裕が出てきたのかな。
看板の灯りを消して営業するコンビニ。
* * *
わたなべさんの地震からの7日間の記録。いかがでしたでしょうか。
語り口は穏やかで、とても落ち着いているように見えますが、実際は内心とても不安で心配だったことと思います。
大きな災害が起きるたび、私たちは心配したり募金をしたりという行動を起こします。もちろんそれは素晴らしい行動だと思います。しかし、その思いやる心と、実際に自分が被災の当事者になることとは、全く別次元のことなのだと思います。
──災害は、いつか自分のもとにも降りかかるだろう。そのときのために、自分と自分の大切な存在を守る準備と覚悟をしておこう。
わたなべさんの経験から、学ばせていただきました。わたなべさん、ありがとうございました!
1968年、北海道生まれ。設計デザイン、商品開発などに携わったのち、宣伝会議 編集・ライター養成講座 上級コース 米光クラス第7期受講。修了後ライターとして活動。現在、札幌国際芸術祭2017【大風呂敷プロジェクト】に運営サポートとして参加中。