“殿様”が牛を放牧し、乳を搾っている——
そんな牧場が、広島県東部の神石高原町(じんせきこうげんちょう)にあります。“殿様”とは、かつて福島県沿岸北部を統治していた旧相馬中村藩主家の第34代目当主・相馬行胤(そうまみちたね)さんです。
江戸時代の写真……? ではなくて、こちらが旧相馬中村藩主家の第34代目当主・相馬行胤さんです
もともと北海道で牧場を経営し、福島県相馬市ではシイタケ栽培をしていた相馬さんの生活を一変させたのが、東日本大震災と福島第一原発事故でした。
紆余曲折を経て、その後、神石高原町に移住。相馬さんは今この場所で、「安全、おいしさ、いのち」にとことん向き合う農業にゼロからの挑戦をしています。
殿様農家の半生が教えてくれたのは、震災や原発事故後を生きる私たちの「食」のあり方や「いのち」の意味でした。
Producer
相馬行胤(株式会社カシワダイリンクス)|広島県神石郡神石高原町
私たち家族は東日本大震災をきっかけに今まで住んでいた愛すべき故郷から、広島県の東部に位置する神石高原町という小さな町に引っ越して来ました。「安全、おいしさ、いのち」というものにとことん向き合った農業を行っています。
福島から広島へ。避難者が集まる「ビレッジ」をつくろう
広島県第2の都市:福山市から、車で北上すること約50分。周囲に広大な自然が広がる神石高原町に、相馬さんが経営する牧場 「Soma’s Ranch」 があります。
県内でも人口減少や高齢化が特に深刻な地域で、人口は9,253人、65歳以上の高齢化率は45%を超えています(2018年5月現在・町調査)。いわゆる限界集落です。
相馬さんはこの町に2013年に移住し、自然放牧の酪農を開始しました。
極力ストレスを与えない飼育方法で育てた牛から絞った牛乳を、素材本来の味を大事にする製法で「ヨーグルトドリンク」に加工して販売しています。
相馬さんはなぜ、故郷の福島から遠く離れた限界集落へ移ったのでしょうか。まずは東日本大震災以前の暮らしを振り返ってもらいました。
ーー震災以前はどんな生活を?
2010年には自ら育てた肉牛を使用した「殿様バーガー」を販売。(出典: 大樹の写真かん)
週末にはケータリングトラックで販売。「お肉がジューシーで旨い」と地元の方からも大評判だったそう。(出典:大樹の写真かん)
ーー“殿様”と言われるのはどうしてですか?
ーー「人生をかける」ですか?
ーーそこから見えてきた「相馬のためにできること」とは?
ーービレッジですか……具体的にはどういった構想なんですか?
ーー広島への移住のために会社を手放すという決断に迷いはありませんでしたか?
「ここで生きよう」と決めたのは運命の出会いがあったから
紆余曲折を経て、ビレッジ構想にたどり着いた相馬さん。西日本を中心に候補地を探している最中に、ある運命的な出会いがありました。そこから、構想が一気に現実化へ動き出したそうです。
ーー運命的な出会いがあったそうですね。
ーー移住後、具体的にどんなことを進めたのですか?
「稼ぐ」ではなく、「共生する」農業へ
神石高原町での活動は、牧場経営だけにとどまりません。相馬さんは、PWJの大西さんや町の仲間たちと共に、地域再生事業にも乗り出しています。
ーー神石高原町での地域再生事業とはどういったものなのでしょう?
ーー相馬再生のヒントが神石高原町にあると?
ーー義務ですか……。
ーーそうして生み出された牛乳の味はいかがでしょう?
故郷と移住先。2つの場所で思い描く夢
神石高原町に移住して約5年。ビレッジや牧場の運営はまだ道半ばとのことですが、相馬さんはその先にもっと大きな夢を膨らませています。
ーー神石高原町では、どんな将来を思い描いていますか?
ーー故郷の相馬では?
先祖代々受け継がれてきた土地を守る責任があるーー。
理不尽な原発事故に遭ってもなお、相馬さんはその思いを胸に前進してきました。会社を畳み、故郷を手放す。苦渋の選択と、退路を断つ覚悟。そして、その先に見つけた一筋の光。
と語る相馬さんの生き様は、私たちの胸を熱くさせます。その光は、これからますます光り輝くことでしょう。
相馬さんの出品はこちら
化粧品専門誌の記者として8年勤務。東日本大震災後、業界紙・東北復興新聞にプロボノで参加、その後専属に。他に、企業のCSR・CSV、一次産業、地方創生などのテーマで取材〜執筆している。