荒れ果てた梅園の再生を担うのは誰か(文=高橋博之)

田舎なんかなくなったってやっていけるじゃないか、と口に出さずとも内心思っている都会の方もいるだろう。しかし、それは間違いだ。田舎がないと都会は成り立たない。なぜなら、都会の人とて、食べないと生きていけないのだから。その食べものをつくっているのは田舎だ。田舎が衰退してもこの国が成り立っているように見えるのは、単に田舎を外国に出しただけの話である。だから外国産の野菜になる。


必ずしも外国産の生産物が悪いわけじゃないが、生産と消費が離れれば離れるほど、食の安心の担保が難しくなることも事実だ。国内の顔が見える農家が育てたこだわりの野菜を子どもに食べさせたいなら、都会の人も一緒になって田舎を守らなければならない。いや、田舎の農家を守るんじゃなく、自分たちの命や健康を守るために。


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三重県鈴鹿市で農家をしている吉川文さんはそんな思いで、リケジョから農業女子に変身を遂げたひとりだ。

結婚、出産を機に脱サラし、祖父母が残してくれた畑で家庭菜園を始めた。母親と弟の3人で約2町歩の畑を耕し、環境に優しい農業で丁寧に野菜をつくっている。1町歩とはだいたいテニスコート38面に相当する面積なので、どれだけ広い畑か想像できるだろう。



畑に使用する肥料などは、できるだけ地域の資源を活用している。鈴鹿市では養鶏が盛んなので地元の発酵鶏糞や同じ県内の鳥羽市浦村の牡蠣殻石灰などを畑にまいている。

上流部に暮らす自分たち農家が地下水や川を汚染しないように農業を営むことで、下流部の海で品質のよい牡蠣が育ち、その殻がまだ畑に戻ってきて土を健康にしてくれるという循環を里海と里山の間に取り戻すことを目指している。


吉川さんの農業は環境だけなく、人間にも優しい。ひきこもりだった弟に何か仕事をやらせたくて農業をさせたら、今では太陽の下で元気に汗を流して農作業をするようになったという。

環境にやさしい農業は、健康な農作物を育てるだけでなく、育てる人間をも健康にするのだ。以来、姉と弟が中心となって、日々、野菜づくりに励んできた。



そんな駆け出し農家の吉川さんだが、地域の知人から1町歩の梅園が後継者不在で耕作放棄されていることを知らされることになった。

せっかくお金をかけて整備してきた梅園が荒れ果てれば、不法投棄の現場になったり、獣の住みかになってしまい、あまりにももったいない。見て見ぬ振りができなくなってしまった吉川さんは、その耕作放棄地の一部を借り受けることにした。



すでに耕作放棄されてから5年以上経っている梅園はジャングルのようになっていた。漆の木も生えていたので、肌がかぶれないように完全防備で梅園の再整備を始めた吉川さんは、野菜づくりで細々と貯蓄してきたお金を切り崩し、梅の木の剪定に使う電動ハサミや電動ノコギリ、脚立などを30万円で購入したが、「せめてこの分は梅の売り上げで取り返していきたい」と語る。ただでさえも畑2町歩を家族3人で維持するだけでも大変なのに梅園にも手を広げてしまったため、ある程度機械の力にも頼らないと成り立たないのだ。


漆から肌を守るため完全防備の吉川さん

梅が売れないことには、吉川さん一家は梅園の整備と梅の生産を続けることができない。自らの家族の健康と命を守るために、田舎で農業を始めた吉川さんだが、都会で生きる私たち消費者にできることがあるとすれば、それは吉川さんの梅を買って食べることではないだろうか。繰り返すが、吉川さんや田舎を守ることは、都市住民である私たち自身の食を自衛することに他ならないのである。




私たちの子どもたちが将来大人になったとき、今大人の私たちはこのままでは「食い逃げした」との誹りを免れないだろう。なぜなら、値段だけを見て安い食材を購入している私たちの消費行動が近い将来、国産の生産物を生産しているこだわりの農家を絶滅に追い込んでしまうことになりかねない事態を現実に迎えているわけだから。高い高いと言うけれど、それは私たちの食の未来を守るために必要な"安心のコスト"なのだということに、そろそろ気づかなければならないのではないだろうか。


吉川さんの梅の購入はこちらから


生産者:吉川文(すいーとぽたけ)/三重県鈴鹿市
結婚・出産を機に環境分析会社を退職し、祖父母の残してくれた畑で家庭菜園を始めた。環境に優しい農業を心掛け、母と弟の三人で約2町の畑を耕す。農園名「すいーとぽたけ」は、畑とフランス語のポタジェと大好きなサツマイモのスイートポテトからの造語。


書き手:高橋博之(㈱ポケットマルシェ代表)
団塊ジュニアの最後の年、1974年に岩手県花巻市に生まれる。前年、高度経済成長が終わる。その残像を引きずる団塊世代から、都会の会社でネクタイ締める人生がよいとの価値観を刷り込まれ、18歳で上京。見つかるわけもない自分探しに没頭(2年生を3回やりました)。大学出るときは超就職氷河期で、大きく価値観が揺さぶられる。新聞社の入社試験を100回以上受け、全滅。29歳、リアリティを求め、帰郷。社会づくりの矢面に立とうと、政治家を目指す。岩手で県議を2期やって、震災後の県知事選に挑戦し、被災地沿岸部270キロをぜんぶ歩いて遊説するという前代未聞の選挙戦を戦い、散る。口で言ってきたことを今度は手足を動かしてやってみようと、事業家に転身。生産者と消費者を「情報」と「コミュニケーション」でつなぐマイクロメディア、東北食べる通信を創刊。定員1500人の目標を達成する。その後、日本食べる通信リーグを創設し、現在、全国39地域にご当地食べる通信が誕生。「世なおしは、食なおし。」「都市と地方をかき混ぜる」の旗を掲げ、20キロのスーツケースをガラガラ引きずりながら、全国各地を行脚する寅さん暮らしを送る。昨年9月、食べる通信をビジネス化した新サービス、ポケットマルシェを始める。

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