福島県相馬市

菊地基文

清昭丸

鮮魚、活魚、水産加工品

沖合底曳き網漁師・菊地 基文

1976年8月
福島県相馬市で水産業を営む家庭の長男(5人兄弟の3番目)として生を享ける。

幼少期
兄弟唯一の男の子だったため両親からはいたく可愛がられ、ぬるま湯に浸かりながらすくすくと育つ。

大学進学
ぬるま湯に浸かりすぎたせいで大学受験に失敗。
1年間親元を離れて予備校通いをするが、ふやけきった体はそう簡単には治らず1年間フルで遊び呆ける。
世にいう『ダメ人間街道』にRide on。
結果、当初の目標大学を2ランクほど下げた3流大学にギリ合格。

転機
大学在学中、父親が病に倒れ余命宣告を告げられる。
この時、家業のルーツや親父の足跡と初めて真剣に向き合う。

~Spin off「父・清照」~
底曳網漁船「清昭丸」の3代目船主・清照は小さな頃から運動神経万能で、高校時代はラグビー部のキャプテンとして東北大会準優勝。
ラグビーの強豪明治大学へ進学したかったが、父・基(基文の祖父)から反対され家業である船に乗る。
自分が進みたい道へ進めなかったこともあり「自分の子供たちには好きな道に進んでほしい」と後に語る。
父のもとで漁師として下積みを続けていた清照はある日、エンジン整備中の事故で片足を切断。
船頭(船長)になることなく船を降り、船主として清昭丸を経営していくことになる。
この頃まだ独身。
事故の後、陸に上がった清照は義足のハンデをものともせず水産加工や水産業関連の仕事をいくつか起業するが、すべてうまくいかず廃業。
船を売れば食うに困らないはずだったが、先祖代々乗り繋いできた家業の船は手放せなかった。
また、相馬の漁業は儲かる仕事でもあったので、息子の職業の選択肢の一つとして微かな期待もあった。
起業しては廃業の日々を繰り返し辿り着いたのが、魚の出荷に使われる発泡スチロール箱の販売だった。
当時、仲買業者が魚介類を木箱に入れて出荷していたことに目をつけ、軽くて水漏れしない発泡スチロール箱の販売を開始、会社名を「有限会社まるつ商店」とした。※「まるつ」は船の屋号。
これが軌道に乗った。
すべての仲買業者は木箱から発泡スチロール箱にシフトした。
一社独占の儲かる商売と思いきや、清照はそれを良しとはしなかった。
1箱あたりの儲けはたったの数円に価格を設定した。
「いくら儲かる仕事でも、ウチは人の食卓よりおかず1品多いぐらいでちょうどいい」と言い、出荷コストを抑えることで地域の水産業が潤うことを喜んだ。
船の経営も同じだった。
乗組員には、自分の子供たち以上に宝を授けた。
私生活では底抜けに明るく不平不満を口にしない親分肌の清照だったが、天命には逆らえず家族や地域に愛情を注いだ生涯は51才で幕を閉じた。
~Fin~

就職
そんな親父の病床にて、ただ喜ばせたい一心で「船に乗って後を継ぐ」と伝える。
内心、漁師になる踏ん切りはついていなかった。
親父を安心させるためのただの口約束のつもりだったが、話は親戚中に広まり親族会議が開かれる。
その結果、引くに引けなくなり本当に船に乗るハメに。
大学卒業後、清昭丸に乗船。

その後
沖合底曳き網は最短で1泊、長くて5泊、海の上で生活する。
漁獲する魚種はタコ類、イカ類、カレイ類、カニ類、タイ類、ヒラメ、タラ、メヒカリ、アナゴ、etc...150種類以上。
他の乗組員と同じ仕事をこなしながら「まんま炊き」といわれる賄い担当を11年経験。
24時間操業のため、食事は1日4回。(朝・昼・晩・晩)
賄い担当を経て、下船頭(船でNo2)となり、近々船頭になろうとしていた矢先、東日本大震災が起きる。
震災後、原発事故の影響もあり1年3ヶ月の間操業を自粛。
2012年6月から漁場・魚種を限定した試験操業を開始。(現在も続く)
船上での様々な魚の料理経験を活かし、現在は相馬で水揚げされる魚介類の加工商品開発やPR、魚食普及活動を続けている。

◎相馬の漁業
相馬市松川浦漁港(原釜漁港)は沿岸漁業が盛んな港で、マグロ・カツオ・サンマなどの回遊魚を漁獲する他県船籍の大型漁船がほとんど入港しない純福島産の漁港です。
震災前は、外国や他県籍の水揚げが無い港としては、全国屈指の水揚げを誇っていました。
福島県沖は、親潮と黒潮がぶつかるプランクトンの豊富な海域で、この漁場で漁獲される魚介類はとても質がよく「常磐もの」と呼ばれ、築地や各中央市場では高値で取引きされていました。

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