福島県耶麻郡猪苗代町
土屋直史 | つちや農園
米
私たちは知っている。あの歌を。
一度は聞いている。あの歌を。
ぼくはあの歌を、また聞きたくてここにいる。
そう誕生の歌を。
ぼくは、福島県の猪苗代町という、北は会津磐梯山、南は猪苗代湖に挟まれた、美しい土地で400年続く米農家の次男坊として生まれました。
父は自由に生きる事を許してくれ、音楽に没頭し、都会に出た事もありました。
しかし、どうしてもぼくの求める音楽ができなかった。どうしてもやっている事が嘘臭かった。着飾った音、考えた音、、、
ちがう、これじゃない。音楽は自然にあふれているのに、なぜ?それを表現できない?
元来、没頭すると視野が狭くなり突き詰めてしまう性格だったため、どんどん、自分の音、音楽に信頼が置けなくなってきました。
そうして、ぼくは音楽ができなくなりました。
その時、ぼくの眼前に浮かんだのが会津磐梯山の姿でした。あの雄大な姿は、ぼくの心に刻まれており、そこにある圧倒的な存在感でもって、ぼくをじっと見つめていました。
帰ろう。
帰って、地に足をつけよう。
ぼくは父の作るお米に誇りをもっていました。
幼稚園の卒園アルバムには、父と農業をするのが夢と書いていたそうです。
自由に生きる事を許した父は、もちろん、あの頃はまだ屋号がありませんでしたが、つちや農園に就農するのを許し、そこから、ぼくの「農」が始まりました。
最初は、父や、先に就農した兄の手伝いをしながら稲作を始めたぼくは、ある時に、ひょんな事から自分の「農」とは?というものの1つの指標を見つけました。
皆さんは、日本の正史における稲作の起源をご存知でしょうか?考古的には、縄文時代後期から弥生時代にかけて稲作が伝来したというのがいまの一般的な解釈ですが、実は稲作の起源は正史(日本書紀)に、はっきりと記載されています。
天孫降臨の章、天孫ニニギノミコトが日本に天下るにあたり、皇祖天照大神より、3種の重大な神勅を賜ります。
1つ目は、天壌無窮の神勅。
2つ目は、宝鏡奉斎の神勅。
そして、
三つ目の斎庭(ユニワ)の稲穂の神勅。
これこそが始まりでした。
曰く、『吾が高天原に所御す斎庭の穂を以て、亦吾が児に御せまつるべし。』
(わが高天原につくっている神に捧げる稲を育てる田んぼの稲穂をわが子にまかせよう)
この神勅には、高天原で行われている米作りをそのまま地上でも、おこないなさい。
と言う意味も込められています。
神々がおこなった米作り『農』をならい、『農』という暮らしをならい、更に、天上から伝えられた斎庭の穂を地上に稔らせることによって、地上を天上と等しいものへ、高天原を地上へ、今を神代へ、という壮大な勅命です。
この思想が始まりなんです。
さて、翻って今、ぼくは、この起源と思想を知った時、かなりショックを受けました。全然こんな農業出来ていない。
全てのモノに神が宿る日本で、八百万の神が協力しあう農。
生きとし生けるものが、手を取り合って行う農。
これっぽっちも出来ていません。
そしてユニワの農の模索の旅が始まりました。
日々の模索の中で、今現在は、無肥料無農薬の自然栽培というもので稲作をしています。
大型機械は使ってしまいますが、稲作発祥、伝来当時の肥料や農薬という概念のない時代のスタンスに立てば、見えるものがあるかもしれない。という考えもありますし、無肥料でも、というか、無肥料だからこそ元気に育つ稲たちを見ると、神秘さというか、様々な生命や現象が絡み合うことによってのみ育まれる稲作というものに、ユニワの片鱗を見、また、人間の欲、人間の範疇の枠外にあるものを感じることができて面白いのです。
特にぼくは、欲深い性分です。もっと量をとってやろうとか、美味しくしてやろうなどと、人間的な思考の範疇で行動しがちです。自然栽培を実践しているとそういう欲を抑えられる気もします。まぁ、人間的な欲求もとても大事な事とは認識しているのですが。笑
実際、こういうスタンスで田んぼや稲に向き合っていると、最近は、稲作というものは祭祀的な意味合いがものすごく強いのではないか?と思うようになりました。
田んぼという空間で、1つの星の歴史を再現しているような気がするのです。地球の46億年を再現しているのでは?と。
大地が生まれる灼熱の時代、泥の海の攪拌の時代。全球凍結の冬の時代。そして、陸地の時代。それぞれを彩る生命たちがしたたかに生まれては消えていき、ここに残る。その再現であり、新たな国産み神話なのではなかろうか。と。
そういう観点で、その流れに寄り添い、人間として、稲や、田んぼ、水、大気、地域の環境、地球、宇宙を見る事ができ、また、農を完成する事ができれば、いずれ田んぼで新種の生命が誕生するだろうし、きっと空には新たな星が誕生するだろう。そんな夢のような確信がぼくにうまれたのです。
そう、誕生なんです。
ぼくは、忘れない。
作業中、不思議な感覚におそわれた事を。
無肥料栽培米の選別中に、仕上がったお米をマジマジと見ていた時におそわれた感覚を。
お米が、なにか、騒がしい。
さらにマジマジとみる。
聞こうとする。
騒がしくなにをしているのか。
聞こえなくとも聞こうと、見えなくとも見ようと。
パッと何かが、脳裏に火花のようなものが散りました。
誕生の歌。
歌っているんです。
お米は。
誕生の歌を。
お米は種だから。
生命そのものの種だから。
歌っていたんです。
誕生の歌を。生命そのものの歌を。
声は小さく、聞き取る事は出来なくとも、歌っていたんです。
それは、きっと、ぼくも歌っていたのだろうし、すべてのモノが歌っているし、歌っていたんだと思います。
感じたのはその時一回でした。
だから、ぼくは、もっと大きな声で、みんな聞こえるような、思い出すような大きな声で、誕生の歌を歌うお米を、育てられればと思っています。
この生命という音楽であふれた世界で、ぼくはもう一度、あの誕生の歌を聞きたいし、自身も生命としてお米と一緒に歌いたい。
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