ポケマル 自然と人にやさしい「食」と「つくる人」

食とつくる人

ゼロからの開墾永続可能な農業を

―― 人も自然も搾取しない暮らし

岩手県花巻市東和町
酒匂徹さんと集落の方たちが育てる

蕎 麦

ゼロからの開墾

有機農業は高く買ってくれる人がいて成り立つ。その高く買ってくれる環境を守るために、ゴルフ場開発に断固反対したわけだが、自分たちさえよければよいという自己中心的な考え方にも思えてきて、疑問はさらに深まった。あるとき、有志の勉強会でパーマカルチャーの存在を知り、これだと思った。自分の農園で作物を自給することに加え、周囲の自然環境や地域社会とも調和を図るという思想に惹かれた。当時、すでに大学を退学し、三芳村に移住していた酒勾さんはパーマカルチャーの本場、ニュージーランドに渡り、1年間農業研修に身を投じた。
酒勾さんは、それぞれの農家がこだわりを持ちながらも、現実社会との折り合いの中でやれることをやるという柔軟な発想を持ったパーマカルチャーを学び、視野がぐんと広がった。帰国後、実家のある岩手に戻り、町内での農薬空中散布が認められていない東和町で土地を探し始めた。すぐに、今の農園がある土地を役場職員から紹介された。20年以上放置された田畑には雑木が生い茂っていたが、「家の周りには農地が広がり、裏山、溜池、防風林もあり、植生も豊か。まるで自分たちやってくるのを待っているかのようだと思った」と、酒勾さんはその土地に一目惚れした。
家も田畑も、竹藪や雑木に覆われた状態だったのですぐに農業を始めることは不可能だった。母屋や小屋なども自分でつくるのがパーマカルチャーなので、技術習得と資金づくりを兼ねて平日は工務店でアルバイトをしながら、週末は農地を開墾する日々が3年間あまり続いた。豚や鶏も飼い始め、田畑の堆肥を確保し、少しずつ農業ができる基盤をつくりあげていった。そうして、10年後にようやく農業一本で生活していけるまでになった。以来、酒勾さんのパーマカルチャーを学びに、全国各地から若者たちがひっきりなしにやってきて、住み込みで働いている。

創造的破壞

これまで多くの若者たちの面倒を見てきた。全農産物に占める有機作物の割合は相変わらず0.5%程度と低迷しているが、有機農業にしろ、パーマカルチャーにしろ、情報が豊かになったことで一般化され、もはや特殊なものではなくなったと感じている。かつては世俗を捨てるくらいの覚悟が必要だったし、酒勾さん自身も親から猛反対されたが、今や「やりたい」と思い立てばすぐにでも実践できる環境になっている。「かつて有機農業の普及に尽力した人々はこの状況を目指していたわけで素晴らしいこと」と評価をしつつ、一方で一抹の不安も感じていると酒勾さんはいう。
「自分はバブル世代。あの時代、ブランドのバッグに価値を見出した人々が飛びついたのと同じ感覚で、今、パーマカルチャーに飛びつくこともできる。"今ある自分"を変えずに、農的な暮らしを"スタイル"として身につけることができるようになったが、果たしてどうなのか」。事実、セミナーや勉強会に熱心に通って勉強しても、草むしりに1時間で飽きてしまう若者は、独立してもひとりでやっていくのに苦労していた。
ことに生命に触れ、自然に学ぶパーマカルチャーの世界においては「破壊」があり「創造」がある。破壊なしに真の創造はない。しかし、今の若者たちは情報が豊かなこの時代ゆえに、「道筋をなぞって延長線上を歩く」ことができる。どん底まで落ちることすらさせてもらえない時代だ。そこから真の創造は生まれない。また、受け身で得る情報がなかなか身につかないのに比べ、自分自身の五感を研ぎ澄ませて得た気づきと発見は、主体的につかみとったものであり、自分の一部として残り続ける。この体験にも今の若者は乏しい。
一方で、「うちで研修したいというくらいの志のある子なのに」という見方をしてしまう自分たちにも問題があるのだと、奥さんとよく話している。「自分はこうだった」が通用しない世代にどう伝えていくのか。酒匂さん自身にも常に迷い、戸惑いがある。それでも、この農園で土に触れながら仕事をして、展望が開けていく若者たちの姿を見られることには喜びもあるという。

自然のメッセンジャー
からの声

ウレシパモシリ開園から20年。今後は馬や牛も飼い、農園をさらに理想の形にデザインしようと準備している酒勾さんには、もうひとつデザインしたいことがある。それは、酒匂さんが暮らす集落全体のデザインだ。地域内の資源の循環だけで永続できるエコビレッジをつくりたいと考えている。このエコビレッジができないと、理想の農園を実現することはできない。今、家畜の飼料は集落外の慣行農業から出る麦などで賄っている。
「集落全体がつくっているものが有機農産物で、規格外のものが家畜の餌としてまわってくるようにならないと、本当の意味で自立していないし、永続可能じゃないなと」。
ウレシパシリの作物を購入する人たちの多くが、化学物質過敏症に苦しんでおり、こういう人たちの割合が年々増えているという。「作物を新聞にくるんで送るのもダメ(インクがNG)。食べるものがないので、必死の思いでうちを探してやってくる。周りの農家からの農薬散布はないですか?と聞かれる」。酒勾さんは「はい」と答えられない自分に忸怩(じくじ)たる思いでいる。酒勾さんは、化学物質過敏症の人たちを自然界の異変を伝えるメッセンジャーだと感じている。この声に応える食べものをつくろうとすると、必然的に外部から持ち込むことなく、この土地の力だけで育つものということになる。それが自然栽培で、本来の食べものの姿に近づいていく。

集落との融合

問題は、慣行農業が一般的なこの集落に、酒勾さんの思いをどう伝えていくのかということだ。元々、役場職員から「ほんとにこんなところでいいんですか?」と言われたくらい集落の奥まったところに、ある日突然、外から若者が転がり込んできて、何やら開墾をしている。そこにいつしか若者たちが集まるようになっている。集落の人々が警戒しないわけがない。事実、当初、オウム真理教じゃないかと疑われ、通報されたこともあったと酒勾さんは苦笑いする。
転機は10年前にやってきた。酒匂さんが移住した白山集落は戸数60軒で、ほとんどが兼業農家だった。高齢化で担い手不足が深刻化しつつあった10年前、住民たちはこの集落の農地を維持していくのか、荒れ放題にしていくのかの選択を国から迫られた。助成金を得て条件不利の山あいの農地を守っていくことを住民たちで決断し、集落営農組織を立ち上げた。花巻市では水田の転作作物である雑穀の生産が盛んだったこともあり、中でも生育が早く手間のかからない蕎麦は、現実的な選択肢だった。
作付け地の団地化にはまとまった面積が必要ということもあって、若手の酒勾さんにも声がかかった。蕎麦は無農薬・無肥料でも比較的つくりやすいため、自然栽培で育てることを提案した。そうして先頭に立って汗をかき、赤字にならない値段設定で販売先も見つけてきた。ボランティアではなく、ちゃんと集落営農組織が農家に手間賃を払って作業をお願いできる環境が整った。また、苦手な庶務会計まで引き受け、総会資料作成などもこなしている。離農した高齢世帯から農地の相談が来るようにもなった。こうして、酒勾さんは徐々に集落の人々から信頼されるようになっていった。
数年前、こんな出来事があった。畑が隣接している近所の農家から「去年はカメムシの被害がひどかったので、迷惑だろうけど今までしてなかった防除するからね」と、事前に連絡があった。そんなことは初めて言われた。自分たちがやってきた自然栽培に対して少し理解してくれるようになったのだと、嬉しく思った。自然栽培の蕎麦生産で実績をつくり、次は集落の平地で行う主力のお米でも徐々に同じことをやれないかと思っている。それができれば、エコビレッジに近づき、集落自体の付加価値も上がると。

<前のページへ

次のページへ>